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Vol.099 英語がなくなる日

Vol.099 英語がなくなる日


2019年04月09日投稿
2019年04月09日更新



「翻訳技術」が日進月歩で進化しています。
機械が言葉を翻訳してくれるのであれば、英語の勉強はいらないのでは?
当然、そんな疑問も出てくるかと思いますので、今回はこの問題について考えていきます。

この問題を考えるにあたり、良い事例があります。
それは電卓の歴史です。
世界初の電卓は1963年にイギリスで生まれました。
その後、1964年にシャープがCS-10Aという電卓の開発に成功しましたが、価格は当時の値段で53万5000円、重量はなんと25kgという、とても家庭で手軽に入手できるような代物ではありませんでした。しかし、そこから小型化と量産化がどんどん進み、1970年代後半には今の電卓と似たようなかたちのものが一般的な家庭にまで広く普及が進みました。
最初の電卓が世に姿を現してから、そうなるまでに10年程度しかかかっていません。
1960年頃に教育を受けた世代、現在70代~80代の方々にとって「計算ができること」の価値というのは、今の私たちにとって「英語が使えること」と同じような輝きがあったものと思われます。
「翻訳技術」に関してはどうでしょうか?
「翻訳プログラム」だけを携帯することは出来ませんから、「翻訳技術」を携帯するためには高度な演算機能を備えた機械が必要です。
翻訳は電卓のような単純計算と異なり、膨大なデータを扱いますから。
しかし、大量のデータを演算処理できるスマホという機械が先に普及しているんですよね。
人々が「翻訳技術」を持ち歩くための条件はすでに整っているわけです。

言語コミュニケーションには、「情報の伝達」と「共感」という大きく2つの役割があります。
「情報の伝達」手段としての言語力に困らない未来がやってくるのは、ほぼ間違いないでしょう。
(情報の伝達手段として)英語を使うことになるかもしれないから学ぶ。
それは、自分たちが大人になる頃、電卓が当たり前の時代になることを知らずに必死に計算の練習をしていた60年前の子どもたちと同じようなものかもしれません。

では、学校の授業に「英語」という教科は不要でしょうか?
私はそうは思いません。
誰でも手軽に「翻訳技術」を扱える未来が来たとしても、「英語」はすぐにはなくならないでしょう。
まず、大学院のような場所で研究をしようと思えば、「英語」で論文の読み書きができる必要があります。専門用語にはそもそも日本語になっていない言葉もあるので、翻訳にも限界があるというわけです。どんな分野でも、学び続けた先には世界があり、言葉の壁が存在します。
しかし、誰もが研究者になるわけではありません。
むしろ、ここで考えたいのは未来を生きる、ごく普通の子どもたちにとって英語を学ぶことの意義です。

電卓のように「翻訳技術」を使いこなすことが当たり前の世の中になったとしても、中学生や高校生が「英語」を学ぶことは有用です。
英語力を高めるために要した「学びの技術」が陳腐化することはないからです。
「学びの技術」を習得するのが目的なら、別に英語でなくとも構わないのでは?というご指摘もあるかもしれません。
しかし、これだけ「学び方」に多様な解釈やアプローチがあって、それを教えられる人がいて、その成果を定量的に評価し続けてもらえる教科は他に存在しません。
さらに言えば、自分が習得した技術を実社会で使ってみることもできます。
この点、他の科目よりも圧倒的に優れています。例えば、数学の二次関数を仕事や生活で使ってみる、というのもなかなか難しいものですから。
つまり英語は、自分の「学びの技術」の向上材料として、うってつけの題材なのです。

社会の変化のスピードはどんどん加速しています。
その一方、人間の寿命は伸び続けており、それに伴って人生で働かなければならない期間も伸びることになります。
この2つの変化が意味することはなにか?
それは、「生涯を通じて学び続けなければならない世の中になった」ということです。
ここ数年、「リカレント教育」という言葉をよく耳にするようになりましたが、これは基礎教育を終えた社会人が新たに学びなおし、また就労するというサイクルを繰り返すことの意味で使われます。
生涯を通じて働く期間が長くなった上に、学んだスキルの陳腐化が早くなったため、基礎教育で得た知識やスキルだけで定年まで働き続けることが困難な世の中になったのです。
つまり、これから先の時代を豊かに生きるために「学びの技術」は欠かせないということです。

英語が不要な世の中にはなるかもしれませんが、勉強した時間が無駄になることはないのです。
電卓が普及しても、小学生は今日も変わらず計算問題と格闘を続けています。
教育現場から英語という科目がなくなる日はまだまだ先のことでしょう。