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Vol.204 塾長の履歴書 -浪人編-

Vol.204 塾長の履歴書 -浪人編-



2021年05月11日投稿
2021年05月11日更新



今年度から教育的観点を交えながらの自分史を公開しています。
今回は「浪人編」です。
最初から読んでいただく場合は、以下の記事から読み進めてください。

塾長の履歴書 -小学校編-
塾長の履歴書 -中学校編-
塾長の履歴書 -高校編-

替え玉受験で早慶クラスに潜り込む
「英語」から受験勉強を開始しました。
火がついたタイミングも良かったです。なぜなら、高校3年生の1月~3月というのはかなり自由に時間を使える期間だからです。
中学英文法から復習を行い、それまで経験したことがない量の勉強をこなしました。
この間のことは「考察編2」に書きたいと思います。
浪人期間は河合塾京都校に通いたかったのですが、困ったことになりました。入塾テストによって配属されるクラスが決まる仕組みだったのです。当時の河合塾私大受験コースは、早慶クラスを頂点として、関関同立上位クラス、下位クラス、産近甲龍(関西の私大中堅校を集めた通称、関東なら日東駒専レベル)上位クラス、下位クラス・・のようにして、クラスが何段階にも分かれていました。
2月、第一志望を「慶応大学」と記入して申し込んだのですが、入塾テストの結果、私の手元に届いた予備校の案内通知には「産近甲龍Bクラス」と書いてありました。私大受験コースの中で最下位のクラスです。産近甲龍が悪いわけではありませんが、慶応大学を受験しようとする人間が、産近甲龍を目標にしていたのではお話にもならないのではないか、私は憤慨し、そのことを、大学受験を勧めてくれた頭の良い友人に相談しました。
ここで私たちは非常識な戦法を繰り出すことにしました。
友人が私に成りすまして入塾テストを再受験することにしたのです。いわゆる替え玉受験です。
再度、予備校の案内通知が手元に届き、そこには「早慶クラス」という記載がありました。
そのようにして、私は河合塾京都校の早慶クラスに何とか潜り込んだのです。
当たり前の話ですが、替え玉受験をしたのは後にも先にも人生この一度きりです(笑)

受験は競争
4月、予備校が始まりました。
早慶クラスは45名程度だったでしょうか。初日、最初が肝心と思い、前髪だけを金髪にし、歌舞伎町のホストのようなスーツを着て、サングラスをかけていきました。全体的におとなしくて真面目そうな生徒が多く、「さすが早慶クラス、、、」と謎の上から目線でその様子をえらそうに眺めていました。頭悪くてすみません・・。
しかし、初日から、いきなりピンチに追い込まれました。
予備校には、科目指導を行う講師とはまた別に受験生活をサポートしてくれる職員さんがいるのですが、その方が次のようなお話をされたのです。
「受験は競争です。皆さんには大学受験は厳しい競争社会であることを常に意識してもらいたいと思います。具体的には、偏差値順に今からみなさんの座席を並べなおします。」
女子生徒からは軽い悲鳴が上がり、教室がざわざわしました。そのクラスに知人がいる生徒たちはお互いに不安を言い合い、「どうしよう、どうしよう・・」などと言って動揺していました。
サングラスをかけたまま、平然とした顔をして座っていましたが、その教室の中で一番動揺していたのは間違いなく私です(笑)替え玉受験でそこにいるわけですから。こんなことならもっと地味な服を着て予備校に来たら良かったと、どうでも良いことを後悔しました。
成績判定には、「サクセスクリニック」という河合塾内部生用の英語の試験が使われました。通常の模試よりも問題数が多く、試験時間が長かったように記憶しています。内部生と言っても相当な数の生徒が在籍していますから、通常の模試と同じように偏差値も出ます。
成績の良かった生徒から名前を呼ばれ、成績データ票を渡されて、そのまま席に案内されるというかたちでホームルームが進行していきました。同じクラスに髪がピンク色のかなり目立つ生徒がいたのですが、その生徒は4番目か5番目くらいに呼ばれていました。勝手に仲間意識を持っていた私は裏切られたような気持ちになりました。後で知ったことですが、早稲田志望の4浪目の生徒でした。成績ビリは高校時代も経験しているし、いまさら気にすることでもないかと逆に開き直りはじめていた矢先、衝撃的なことが起きました。
全体の半数を過ぎた頃でしょうか。そこで私の名前が呼ばれたのです。
人生で初めて「耳を疑う」という経験をしました。なにかの間違いではないかと思いました。勉強を開始して3か月。そもそも、まともに模試を受験した経験がありません。勉強開始前の偏差値は30台前半であったと思われますが、そこで手にした成績データ票には「偏差値62」と表記されていたのです。あまりの興奮にデータ票を持つ手が震えました。これまで人生で常に「負けている」側であった自分が、初めて自分の努力が実る経験をしたのです。自分の力で「結果を出す」ということの破壊力をこのときほど思い知ったことはありません。あと1年近くもある。早慶クラスでもやっていける。「これなら慶応大学に合格できる」と自信を深めました。

波乱の前期試験
夏までに英語以外の科目の偏差値も伸びたところまでは良かったですが、その後よくあるように停滞期を迎えました。国語は古文漢文の勉強をしていなかったため、マーク模試の偏差値は60未満。ただし、現代文に関してだけを言えばどの模試でも正答率が9割を下回ることはなく、特に問題に感じることはありませんでした(慶応は古文漢文なし)。平均点の低くなる記述式模試では古文があっても偏差値70を超えていたように記憶しています。世界史は偏差値60まではすぐに伸びましたが、そこで停滞。一番好きな科目でしたが、試験になると細かい知識を思い出せずに苦戦することが多かったです。入試直前期は世界史の勉強に最も時間を割くことになりました。

そして1月、大学入試センター試験。会場は滋賀大学でした。
英語の試験を終えたとき、これは満点かもしれない、と思えるくらいの手応えがありました。高校編の冒頭で書いたとおり、自己採点結果は198点と英語のマーク式の試験としては過去最高の点数を本番で取ることができました。
ここからの数週間は死に物狂いで勉強をしました。目標1日20時間でしたから、いかに無茶をしようとしたかがわかります。ただ、実際に時間を測ってやってみると、1日20時間というのはあまりにも非現実的な数字でしたが・・。それでも1日平均15時間以上はこなしていたはずです。
後日談になりますが、大学の試験も短期集中の勉強ですべて突破しました。計画的に勉強を進めることがもともと苦手なタイプなのです。ちなみに、こうしたやり方は受験には不向きです。いったん気持ちの糸が切れると立て直せなくなります。

2月、いよいよ入試の本番月。
出願先は日程順に同志社大学文学部英文学科、京都産業大学外国語学部、立命館大学国際関係学部、慶応大学文学部、上智大学法学部の5つ。ちなみに慶応大学以外の大学の過去問はやっていません。受験生としてあってはならないことです。
初戦、同志社大学文学部英文学科。
試験は手応えがありました。当日、国文科を受験している成績優秀な友人(私は英文科)とたまたま会場で出会って一緒に帰ることに。彼と答え合わせをしながら家路についたのですが、その後合格することになる彼と大半の問題で選んだ解答が同じであり、何より古文の選択問題がすべて合っていたのです(もちろん偶然です)。古文が取れているなら不合格は考えられないと思っていたので、自分的にはその時点で合格できたと思いました。
次戦、京都産業大学外国語学部。
ここで思ってもいなかったことになります。
試験会場は大学のキャンパスだったのですが、ここは京都市内でも少し不便なところに大学があります。地下鉄を降りて、そこから超満員のバスに乗って試験会場に向かう最中、どうにも気分が悪くなり、立っていることも出来なくなりました。車内に座り込んでいたのを見かねた乗客が席を譲ってくれたため、どうにかキャンパスまでは到着したのですが、吐き気がひどく、少し歩くとめまいがしてふらふらになるといった具合で、バス停から教室に向かうことすら出来なくなってしまいました。ここから先のことはあまり覚えていないのですが、その後、医務室に案内され、そこで受験をさせてもらえることになりました。余談ですが、このときの医務室にいらっしゃった方々がありえないくらい親切であったことだけは数十年経った今でも覚えています。帰りはタクシー代まで出してくださり、まさに神対応でした。「合格したら御礼にきます」と言い残したまま、それをしなかったことを今でも後悔しています。ただ、残念ながら不合格でしたが・・。
その翌日、立命館大学国際関係学部。
受験料を納めてもらった両親には申し訳なかったですが、体調にあまりに自信がなく、この試験はやむなく欠席させてもらいました。
この時点で合格可能性があるのは、同志社とまだ受験していない慶応と上智の3校になります。
2月中旬、関東圏の大学受験のために上京するよりも先に同志社大学の合否発表がありました。
これがまさかの不合格・・。
一つの合格もない状態で、慶応と上智の試験を残すのみとなり、状況的にはかなり追い込まれました。あわてて上智大学の赤本を購入したことを覚えています。
そして慶応大学。
京王線の多摩センター駅にある親戚の家に前日から泊めてもらい、そこから試験会場である日吉キャンパスに向かうことにしたのですが、まずこれが失敗でした。慣れない超満員の電車に精神的に疲弊し、会場に着くころには家に帰りたくなる始末。同志社大学の受験を終えたあたりから、「大学受験、早く終わって欲しい・・」という逃げの心境になっており、気持ちの糸が完全に切れていました。センター試験を終えてから無茶な勉強をし始めたことが良くなかったです。万全のコンディションで迎えたとしても合格できるかどうかという大学ですから、そんな状態で合格できるはずがありません。センター試験や同志社大学を受験したときのような手ごたえは一切なく、「微妙」という表現がぴったりの試験の出来でした。続く上智大学も同じような感触で、慶応と上智の結果発表だけを残し、2月下旬を迎えることになりました。これは想定された中で最悪のシナリオです。そうなる可能性は充分にあったはずなのに、出願前の自分はそうしたことになるとは想像もしていませんでした。
結果は慶応も上智も不合格。
2浪以外に再戦のチャンスはなく、絶望的な気持ちになりました。

絶対に落とせない後期試験
親に2浪は認めないと何度も釘を刺されていたので、どこかの大学に合格する必要がありました。私も受験勉強はもううんざりでした。
最初から私の学力に対する信頼はなかったので、親は慶応大学に合格するとはまったく思っていなかったはずです。親を否定したいわけではありません。偏りのある模試結果だけを断片的に聞いているだけでは信頼できなくて当然だからです。「絶対大丈夫!」と言っているのが高校では成績最下位だった本人だけなのですから。それにも関わらずきちんと挑戦させてくれたことがありがたかったですし、そういう意味では私の言葉をきちんと聴いてくれていたのだと思います。
「絶対大丈夫!」と言っていたにも関わらず不合格になったのですから、私としても現状を認めないわけにはいきません。どこでも良いのであれば大学は合格できると思っていましたし、「受験料がもったいないから、どこか1校に出願すればそれで充分!」と主張しましたが、とにかく2浪を避けたい両親の「もっとたくさん出願しなさい、もっと簡単な大学も受験しなさい」という方針に素直に従い、3校に出願することになりました。後期試験についてさらに調べてみると、早慶上智、GMARCH、関関同立の中で1校だけ、立命館大学に後期試験があることを発見しました。こうした大学は後期試験を行わないと思っていたため、驚いたのですが、せっかくなので挑戦してみようと思いました。ところが、当時は後期試験を行う私立大学が少なかったため、倍率が異常に高いのです。正確な数字は覚えていないのですが、私の受験年度も倍率10倍を軽く超えていたことは覚えています。両親は「そんな大学に出願しても合格できない」と否定的でしたが、最後の機会なのでということで出願を認めてくれました。これで後期試験出願校は4校。「倍率」という意味で落ちて当然の1校と、(自分の中では)合格して当然の3校というラインナップで最終戦を迎えることになりました。
「落ちて当然」と「合格して当然」の受験は気が楽なものです。センター試験も同じでしたが、良い精神状態で試験に臨むことができ、どの試験も最高の出来でした。合格した感触はありましたが、また同志社のときのように「合格した!」と騒いで後で恥をかくのが嫌だったため、合格発表日まで何も言わないことにしました。
3月14日、自分の誕生日が立命館大学の合格発表日でした。
そこで自分の受験番号を発見した瞬間の興奮は今でも忘れることができません。
奇跡のような大逆転劇。
これが不幸の始まりだったのか、幸せの始まりだったのか。
人生のどの時点から振り返るかによってこの答えは変わってきますが、いずれにしてもそのときが、19年間生きてきた中で最高の瞬間であったことは断言できます。

次回、考察編2へと続きます。


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