
Vol.296 はなれる日
2023年02月14日更新
一般的に言って、親子間の愛着に勝る人間関係はないと思います。
多くの親は子どものためなら、自分の命でも投げ出せるでしょうし、子育て期の親は自分のやりたいことの大半を子どものために制限しています。
すべての人間関係がそうであるように、親子関係もまた最初から「別れ」を内包したものです。
不幸なことが起きなければ、親が先に死ぬのが自然な流れ。
残された子どもは自分の力で生きていかなければなりません。
当然、その頃には子どもも立派な大人になっていますから、親が先に死ぬことによって、大きな精神的ダメージを受けるにしても、自分の心や生活が崩壊してしまうまでにはなりません。
精神的かつ経済的に「自立」出来ているからです。
15歳、義務教育期間の終わりを、思春期の最終局面と私はとらえています。
ここを中間ゴールととらえたときに、本人のまわりにいる成長支援者(親や教師)が目指す状態というのは究極的には一つしかなく、例外もないと考えています。
それは子どもを精神的に「自立」させることです。
そして、社会人生活を始める日が、親から経済的な「自立」を果たす日。
この2つの「自立」を達成して、子どもは完全な大人になります。
経済的な「自立」のタイミングはわかりやすいです。
子どもが就職し、自分の生活に必要なだけの収入を得られるようになる日ですから、親も子どももその日を迎えたという自覚は持ちやすいですし、出来ているかいないかも明白です。
しかし、精神的な「自立」に関しては違います。
目に見えるかたちでその日を迎えるわけではありません。
子どもが示すかすかな兆候から、親は巣立ちの日が近いことを予感するようになります。
親と子どもは異なる時間感覚で生きています。
子どもの1年と、親の1年は体感時間がまったく違う。
親が気のついた頃には、自分にさんざん甘えていた小さな子どもはもうそこにはいません。
子どものために服を買いに行くことも、ゲームを買って欲しいとせがまれることも、ディズニーランドに連れていけと言われることも、なくなります。
その日には光も音もなく、明確な境界線もありません。
親にしてみると、気がついたら、いつの間にか役割が消滅しているという感じなのです。
冒頭に書いたように、親は「それがすべて」と言っていいほどに子どもを愛して生きています。
それでも、いつか迎えに来るそのさよならの日を、覚悟を胸に秘めて待つ。
それが自然なことだと頭ではわかっていても、親にしてみればさみしいものです。