Vol.200 塾長の履歴書 -小学校編-
2021年04月06日更新
数年前から塾長ブログを毎週火曜日に更新し続け200号まで到達しました。
節目の記事となる今回は、いつもと少し趣向を変えて、自分史を書いてみようと思います。
今回は「小学校編」です。
ファミコンに負けた少年 -小学校低学年-
両親は旭川市出身です。私も旭川市で生まれたのですが、育ちは滋賀県の片田舎です。
都会にはまったく縁のない場所で幼少期から青年期までを過ごしました。
小学校低学年の時期は裏山に友達と秘密基地をつくったり、川にザリガニを獲りにいったりと田舎の子どもにありがちな毎日を過ごしていました。
元来、自分の気質は人を楽しませることが大好きなエンターティナー。そうは言っても、見た目が貧弱で運動神経も悪く、何事も勘が悪くて覚えが悪かったため、クラスの中でリーダーシップを発揮できる要素は皆無でした。あるとき、走り方が当時流行していたエリマキトカゲに似ているとバカにされるということがありました。それならいっそのこともっとそれっぽく走ってやろうと体育の授業では思い切りふざけて走り、同級生に笑われていた記憶があります。輪の中心にいたいという欲求を満たすために道化を演じていました。遊びは自分が企画し、まわりを巻き込むことが多かったですが、小学校2年生になった頃から様子が変わってきます。任天堂ファミリーコンピューター(ファミコン)の登場です。田舎の小学校にも少し遅れて大流行し、どの子供も持っているのが当たり前といった雰囲気になってきました。両親に「どうしても買ってほしい」と懇願しましたが、教育方針により買ってもらえませんでした。流行のゲームソフトを持っている友達の家に集まって、みんなでプレイする、というのが仲間内の遊びの主流になりました。面白いゲームを持っている人が遊びの場で主導権をとるようになり、勉強でもスポーツでも主導権を獲れなかった私は、遊びの場でも主導権を獲れなくなり、クラスの中で急速に存在感を失っていくことになります。たしかにファミコンを持っていない友人もいましたが、彼らには勉強や野球といった居場所があります。私が友人に誇れるものは何一つありませんでした。
ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代 -小学校中学年-
ちょうど良いタイミングで転機が訪れます。研究者であった父親がロンドン大学に籍をおくことになり、日本をしばらく離れることになったのです。いま振り返っても、良い判断であったと思いますが、両親は日本人学校ではなく、現地の小学校に私を編入させてくれました。まわりは英語ばかりの環境ですから、最初はつらくて仕方がなかったです。しかし、子どもの順応性というのは大したもので、数か月もするとコミュニケーションは支障なく行えるようになりました。そうして現地の友人も増え始めた頃、驚きの展開が待っていました。謎のモテ期です(笑)特に美少年でもないアジア人がなぜそんなに女子に人気になったのか、10年くらい経ってからようやくその理由に気付きました。原因はおそらくクラスの中で抜群に算数が出来たことです。しかし、それも当然の話。日本の教育では小学校3年生と言えば、2ケタのかけ算くらいまでは進んでいたのですが、現地の同級生は2ケタの足し算とか、そうしたレベルだったのです。めずらしい日本人であることに加え、言葉は幼児レベル、算数は上級生レベルというギャップが彼女たちの好奇心を刺激したのだと思います。
日本の教育史から振り返ると、この背景にあるのは1968年の学習指導要領の大改訂です。高度経済成長期の中で、当時としては世界最高峰レベルの学習量を必要とするカリキュラムに変貌を遂げていた日本型詰め込み教育。1979年に刊行された『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という書籍の中で著者のエズラ・ヴォーゲル氏は、日本人の数学力はイスラエルに次いで世界2位である、といったようなことも述べています。全国に学習塾が増えていくのも、ちょうどこの時期と重なります。日本の教育はその後、詰め込み型の教育の反動として、ついていけない生徒たちによって学校が荒廃、その後の悪名高い「ゆとり教育」の流れへとつながっていくことになるのですが・・。
話を戻します。
少なくとも当時の私には「算数ができてカッコイイ!」という価値観はありませんでした。まわりにいる日本の小学生も同じです。野球が出来る、足が速い・・、クラスの中心で輝いていたのはだいたいこうした同級生です。人間は自分の価値観の物差しに従って生きる存在ですから、そういう価値観がなければ「そうなりたい」と心から思うこともありません。
満たされない承認欲 -小学校高学年-
日本に帰国した私を待っていたのは、不愉快な体験でした。「いじめ」です。誰かの体験談などでよくあるような壮絶なものではありません。それでも、悪口を書かれた手紙を仲間内でまわされたり、全員に無視されたり、遊びには声がかからなかったり、後ろから蹴られて笑われたり、といった感じで、小学生が傷つくには充分な内容でした。「クラス全員に」というよりも、そういう気質を持った一部の生徒から集中的にといった感じです。
いじめられることの原因は自らの性格に問題があったと振り返っています。具体的には、自己顕示欲、自己承認欲が強すぎたことです。しかし、勉強ができるわけでもない、運動ができるわけでもない私が自分の承認欲を満たす手段は何も持っていませんでした。誰も自分のことを認めてくれない、ほめてくれない、というのは承認欲の強い子どもにとっては特につらいものです。満たされない承認欲は高校時代に思ってもいなかったかたちで暴走し始めることになります。
小学校5年生を終える頃でしょうか、ある日、タイムカプセルを埋めるという企画が学校で持ちあがりました。そのタイムカプセルには友人へのメッセージを同封することになっていたのですが、仲が良いと思っていた友人が未来の私宛に手紙を書いてくれることになりました。どうしても気になった私はタイムカプセルを封印する前に、手紙をこっそり読んでしまったのです。そこに書いてあった言葉をいまだに忘れることが出来ません。ひと言「自慢はやめよう!」とだけ書いてありました。死ぬほど恥ずかしく、あわててその手紙をカプセルの中に押し込みました。人に自慢ばかりしているという自覚はまったくなかったのですが、客観的にみるとそういう少年だったのでしょう。よほど、承認に飢えていたのだと思います。
こういうこともありました。同級生に、ドラえもんに出てくるジャイアンのような身体の大きな乱暴者がいました。休み時間、肩を組むような格好で、私は彼にネチネチと文句をつけられ、殴る殴らないで脅されていました。いまの自分からはあまり考えられないのですが、当時の私は、彼の脅しに完全に屈し、ただただ涙を流して呆然としていました。その様子をみかねた同級生が、乱暴者に大きな声で「やめたれや!!」と言ったのです。そこからその2人は流血しての大乱闘になり、先生が止めに入っての大騒ぎとなりました。あまりにも自分が情けなくて、自尊心も何もあったものではありません。
こうした経験から私は2つの処世術を学びました。一つは、「目立とうとすると叩かれる」ということ。もう一つは、「人には必ず悪い一面がある」ということです。安心できない環境の中では、深海に潜む魚のように口を開かずにじっとすることを覚えました。他人の言動を注意深く観察し、誰が何を求めているのかや、誰にどんな良いところや悪いところがあるかを、分析するようになりました。「人間分析ノート」に同級生の言動や特徴をこっそり事細かに記していました。ここで鍛えられた人間観察力がすべてと言っても過言ではないくらいに、いまの仕事には生きていますが・・。
ちなみに、いまの私には人の悪いところを積極的に探す癖はありません。教育者になり、人の特徴をプラスの側面で解釈することが習慣化したからです。
この時期に学んだことは、今は大いに役立っています。承認のない状態に対する耐性もつきました。その忍耐力に関しては、他人より優れていると自負しており、それがあるがために精神が安定しています。さらには、この特性のおかげで人を主役にできるようにもなりました。
人生、良い時期もあれば悪い時期も必ずあると思っています。また、自分が主役になるべきでない場面もあると思っています。悪い時期でも、自分が主役でなくとも、悲観したり自己否定に陥ったりせずに、毎日を暮らすことが出来るようになったのは、このときのつらい経験のおかげです。
長くなりましたので、このあたりで。
「中学校編」へと続きます。