Vol.201 塾長の履歴書 -中学校編-
2021年04月13日更新
前回より、教育的観点を交えながらの自分史を公開しています。
なぜ、こんな記事を書こうと考えたのかというと、「東大生のたくさんいる塾を経営しているくらいだから、勉強が好きで得意だったに違いない」といつも勘違いをされるからです。
その度に、「いえいえ、そんなことはないんですよ!」と否定するのですが、「うちの子と先生ではもともとの頭のレベルが違いますから」とか何とか言われてお話が終わってしまうのが常でした。
そのことが長年のフラストレーションになっていました。
世の中には「最下位の成績から東京大学」みたいなPR?をしていらっしゃる方がたまにいらっしゃいます。そういう場合、自分と同じ境遇かと思い、興味を持ってその方の学校歴を深く調べてみるのですが、ほぼ例外なく進学校に通っていらっしゃるんですよね。
本当に底辺にいた人は、自分の落ちぶれていた過去をそこまで簡単に口に出来ないのではないかと思ったりもします。その状況を端的な言葉で表現することがとても難しいのです。フタをして永遠に消し去ってしまいたいような事実も掘り起こさなければなりません。そうでなければ「そうは言うけど、本当は勉強できた説」(笑)には勝てないからです。
今回は「中学校編」です。
最初から読んでいただく場合は、以下の記事から読み進めてください。
試験になると決まって体調が悪くなる -中学校1年生-
中学時代、人に誇れるようなエピソードはありません。成績は中の下、バドミントン部に所属していましたが、市大会の予選では初戦敗退がお決まりの弱小チーム。通っていた中学校での花形部活動は野球部やサッカー部、バスケットボール部で、バドミントン部や卓球部はマイナーで地味な存在でした。それにも関わらず、練習だけはやたらとハードでした。「外周」と呼ばれている約800mのアップダウンの激しい校舎まわりの道を、毎日10周くらいひたすら走らされるといったもので、ぜんそく持ちの私にはかなりキツかったです。ランニングの後は永遠に筋トレです。そうした感じで基礎体力強化を行わされるばかりで、ラケットを持ってシャトルを打つことが許可されたのは、夏休み明け頃であったように記憶しています。バドミントンが好きになるわけでも上達するわけでもなく、ぱっとしないメンバーと一緒に愚痴を言いながら「外周」を走るだけの毎日でした。
勉強もひどいものでした。中学1年生から3年間、学習塾に通っていたのですが、このことについて書くと長くなるので、また別の機会に書かせていただきます。
1学期中間テストの英語の点数は今でも覚えています。78点でした。当時、小学校で英語は習いませんでしたから、人生で初めての英語の試験。そのため、試験問題はとても易しく作られており、クラス平均点は88点もありました。一応、帰国子女であり、小学校の頃から英会話にも通っていましたから、他の生徒よりも英語は得意なつもりでいたのですが、まわりの誰よりも点数が低くて驚いたのを覚えています。
家庭学習に関しては母親が主に管理をしていました。勉強していないと叱責され、試験毎にがっかりされるといった感じで、親の期待に応えることはまったく出来なかったです。家の中では、次第に反抗的な言葉も口にするようになり、母親に対しての決まり文句は「うるさい!」になりました。学校でえらそうにすることは出来ませんから、家の中でだけ大きな口を叩くようになります。無理に勉強させようとする母親との衝突が最も多かったのは中学校3年間です。この時期の自分と母親に似た親子関係を後年、毎日のように目にするようになるわけですが(笑)
もともと身体は病気がちで貧弱でしたが、この頃から、体調不良にもよく悩まされるようになります。ぜんそくに加え、アレルギー性鼻炎、過敏性腸症候群、原因不明の頻尿、起立性調節障害など、色々な理由で病院に行きました。定期試験が近くなると決まって体調が悪くなりました。自分だけかと思っていましたが、やはり後年、教育の現場で同じような事例を目にすることになります。この状態は教育的観点からみて黄色信号です。
とにかく自分に「自信」がなく、実際、なにをやっても上手くできない。目立つと叩かれるという恐怖心もありましたから、じっとおとなしくその状況に耐えているだけの毎日・・といった感じで、小学校高学年期と並ぶ自分の中での暗黒期です。
心の中で大人をバカにするようになる -中学校2年生-
ぱっとしない時期には変わりないのですが、生活に少し変化が出てきます。心の悩みを打ち明けることの出来る友人の存在です。とりわけ、「腹痛になっても恥ずかしくてトイレに行けない」悩みを抱える友人2人との出会いが自分にとって大きかったです。人に言えない悩みの共有や共通点の発見は、人間の距離をぐっと縮めます。大人やあまり腹痛にならない人の立場からすると、どうでも良いことに思えるくらい小さなことなのですが、自分にとってはお腹が痛くなっても(恥ずかしくて)トイレに駆け込めないという問題は学校生活のストレスになっていました。そんな中、彼らとその悩みを共有するようになったのです。そこから、3人の仲間の誰かが腹痛でトイレに駆け込む必要があるときには、他の2人がトイレの外で他の人が来ないか見張りをする、という奇妙な約束事ができました。この小さなエピソードで伝えたいのは、大人の視点では考えられないようなことが、本人のストレスになっていることがあるということです。ちなみに、この同盟関係は私が腹痛でトイレに入っているときの友人の裏切りが原因で結末を迎えることになります。よりによって、男女交えた風紀委員会のようなグループがタイミング悪く、トイレの清掃状態の確認のために男子トイレの中に大人数で入ってきたのです。私が外に出ると、仲間の2人は「あの人数は守り切れない!」と言って廊下で笑い転げていました。最初は怒っていた私も、大爆笑している2人につられて笑ってしまいました。ただ、この事件以降、それまで自分を苦しめていた羞恥心が嘘のようになくなり、「生理現象は仕方ない」と開き直ることが出来るようになりました。自分を取りまく状況は何も変わっていないのですが、自らの視点が変わったことにより、この問題で悩むことはなくなったのです。中学生くらいの時期であれば、このように視点の持ち方一つで解決可能な問題もたくさんあります。日常のささいな悩みや心配事と向き合ってくれる身近な人間の存在は、子どもの精神安定に良い効果を発揮します。
自分の理解者がいると学校も楽しくなってくるものです。大人への信頼はまったくありませんでしたが、友人と過ごす時間が楽しかったため、学校への苦手意識は次第に減っていきました。
しかし、この時期、自分では気づいていませんでしたが、抑制していた承認欲が再び肥大化していくようになります。友人が出来ても、勉強でも部活でもぱっとしない今一つの自分であることには変わりありません。自然な成り行きとして、勉強や部活以外で「どうすればまわりからもっと評価されるか」を考えるようになりました。「まわり」とは同級生のことであり、親や教師ではありません。この頃の自分に起きていた変化として、自分のことを認めてくれない大人を心の中でバカにするようになり、言葉使いや態度も少しずつ悪化していました。教育的見地から言うと、これも黄色信号。「認めてもらえない」事実と素直に向き合うことが出来れば良いのですが、精神的に未熟な子どもにそれは難しいです。そうすると今度は、「上から目線」の構造を自ら作り出して、自尊心を満たそうとするようになるのです。その間違いを指摘し修正できる力を持った大人は身近には誰もいませんでした。「こうなりたい」と思える大人もいませんでした。反抗期のため、親の言葉はまったく耳に入りません。正論ばかり言う母親とは毎日のように衝突を繰り返していました。
何の価値も感動もない合格 -中学校3年生-
成績は低空飛行を続け、3年生になる頃には定期試験で300点を取ることも厳しくなってきました。通知表も「2」と「3」しかない状態となり、部活や学校の活動でも目立った実績のない私は、大人視点では何一つ良いところのない平凡以下の生徒になりました。実際には「なった」のではなく、自分で自分のことを勝手にそう思いこんでいました。定期試験の度に自己否定をされるようで、勉強はますます嫌になり、逃げることしか考えていませんでした。
同じような状況にあったのは私だけではありません。夏までは部活動で輝いていた同級生たちも、部活を引退したことで自分の居場所を失い、次第に欲と体力を持て余すようになってきました。
そのエネルギーを上手く受験勉強に転換出来れば良かったのですが、彼らもまた、そういう適切な方向づけを行ってくれる大人が身近にいなかったのだと思います。タバコを吸う、髪を金髪に染める、他校に喧嘩にいく・・など、いわゆる問題行動を起こす同級生が目に見えて増えてきました。
当時、「陰キャ」の私は彼らをどんな風にみていたか。恥を承知で書きますが、憧れの気持ちでみていました。なぜなら、学校の中で最も発言権があって目立っていたのが彼らだったからです。
方針が次第にみえてきました。勉強やスポーツで輝くことは出来ませんが、そういうことでなら自分にもチャンスはあります。当時の私が決めたことは来年の高校入学に備えて自分の身体を鍛えなければならない、ということでした。中学を卒業すれば、これまでの人間関係から自由になることが出来ます。「陰キャ」の自分を知っている人間も少なくなります。新しい環境で「強い」自分になっていれば、仲間からも尊敬を集め、楽しい高校生活を過ごせるようになるはずだと考えたのです。
高校受験勉強の記憶はまったくありません。多少の勉強はしていたはずなのにも関わらず、本当に一切の記憶にないのです。部屋で逆立ち腕立て伏せをしていた場面ならすぐに思い出せるのですが・・。努力の方向性を完全に間違えていましたが、その頃の自分にそうした自覚はありません。
成績は進学先の高校を選べるような状態ではありませんでした。少しでもましな学習環境を、という親と先生の意向によって、ある私立高校を「専願」で受験することになったのですが、「誰も落ちない」と言われていたにも関わらず、見事に落ちました。中学校や塾の先生は不合格になった私をやたらと気遣ってくれたのですが、努力もしていませんから、悔しい悲しいという気持ちはまったくありません。
次の公立入試では、倍率1.0倍未満の本当に「誰でも合格できる」高校を選び、何の価値も感動もない「合格」を手にしました。当時の感覚では、はるか遠くの「超」がつくくらいの田舎にある高校でしたが、これまでの人間関係を切り離したいと考えていた私にとってはむしろ好都合でした。
出願前、中学の担任の先生からは「今年はその地域は荒れているから止めておいた方がいい」と何度も説得されていたのですが、むしろ上等と飛び込んでいったのです。
「考察編1」へと続きます。