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Vol.202 塾長の履歴書 -考察編1-

Vol.202 塾長の履歴書 -考察編1-



2021年04月20日投稿
2021年04月20日更新



前々回より、塾長ブログで自分史を公開しています。
小中学校と書き進めましたが、「高校編」へと進む前に教育的考察を加えてみたいと思います。

塾長の履歴書 -小学校編-
塾長の履歴書 -中学校編-

親は誰もが初心者
両親に対して不満に思うようなことは何一つありません。心から尊敬していますし、育ててもらったことに対して、感謝の気持ちでいっぱいです。どのような人生を歩んでいたとしても、それは変わらなかったと思います。学校生活では安心のない日々が続きましたが、家族内は平和でした。ただし、勉強の話になったときだけは別です。親が怖かった小学校までは消極的な姿勢を示すことで抵抗し、親が怖くなくなった中学校以降は反抗的な言動によって抵抗しました。中学生のご両親に対して、親の「勉強しなさい」は無意味なので止めてくださいとお伝えするのですが、それは私の体験にも当てはまります。ただし、自分の体験をベースにそう考えるにいたったわけではありません。最初は自分だけが特殊だと思っていたのです。そうではないことを知ったのは、この仕事に就いてからです。子どもの教育が上手くいかない家庭は、みな同じような失敗をしているのです。

勉強しなさいではダメな理由

親は一生懸命に私を育ててくれましたが、思うようにならないことの連続であったはずです。
それもそのはずで、親は誰もが初心者だからです。一生懸命であることや愛情があることと、それを上手くやれることはまったくの別問題。さらに言えば、人間の成長という難題に対して、親の力だけで何とかしようとするのは不可能です。
思春期には特に、です。

尊敬できる大人との出会い
中学生までの私に決定的に欠けていたもの。
いま振り返ってみると、それははっきりしています。
血縁者以外の「尊敬できる大人」との出会いです。
自分の人生になんらかの意味を残してくれた人の名前は大人になっても覚えているもの。
私の場合、15歳までに出会った大人で名前を思い出せる方はわずか2名しかいません(顔は数名なら思い出せます)。先生で思い出せるのは、中学校2年生のときに教育実習で来てくれた女性の先生だけです。偶然にも通っていた塾の担当講師でもあり、印象が強かったので覚えています。高校を卒業してからですが、カラオケにも連れて行ってくれました。もう1名は先生ではありません。小学校のロンドン在住時に自分の家に遊びに来てくれた国際基督教大学の学生(父親の友人の息子)です。なぜ、覚えているかというと、ヨーロッパを一人で貧乏旅行しているその姿に憧れ、大学在学中に私も同じことをしたからです。
私の人生の指針は15歳まで、あってないようなものでした。義務教育で求められる「こうあるべき」という規範と、親に求められることだけが、私にとっての「あらねばならない姿」でした。学校の規範どおりに「うまくやれない」自分は認識していますから、次第に勉強そのものを軽視するようになっていきましたし、思春期特有の反抗心で親の教えは耳に入らずでした。
完全に糸の切れた凧。
たった一人で良いですから、まともな考え方を持っていて、かつ自分が尊敬する大人が近くにいれば、状況は変えられたと思います。
中学生までの間に、そういう大人と出会うことが出来なかったのは自分の責任です。しかし、自分を弁護するわけではありませんが、精神的に未熟な子どもであったこともまた事実で、これを自己責任と片づけてしまって良いのかというモヤモヤも心の中にはいまだに残っています。先生たちは色々な意味で目立つ生徒ばかりを相手にしており、私が眼中にないことは明らかでした。陰湿ないじめにも気づいていませんでした。恩師と呼べる先生と出会えなかったことは、自分の人生においては残念な歴史です。だからこそ、子どもたちには恩師と呼べる先生と出会わせてあげたい。そう思って久我山にプラスジムを創りました。

尊敬できる大人の存在

新しいテクノロジーとの付き合い方について
いつの時代も、親の世代にはなかったテクノロジーが登場し、親はどのようにそれを扱わせるかという難題に直面します。私の小学校時代で言えば、ファミコンがそれに当たります。近年の教育学の発展は目覚ましく、ゲームをしていることによる勉強への負の影響はあまりないことがわかってきています。ただし、全国各地でファミコンが爆発的に拡がっていた当時、そんな研究結果はもちろんありません。ゲームに熱狂する少年の姿が連日のように報道されていたものと思われます。
当時のファミコンを現代に当てはめるとスマホがそれに該当します。
こういう問題と向き合う場合に最も大切なことは親が先入観を持たないことだと思います。そして、子どもの話をよく聴いてあげてください。小学校2年生時の私に「今の自分にファミコンが必要な理由」を言語化することは出来ませんでしたが、中学生以上であれば、丁寧に話を聴いてあげることで本人のニーズがどこにあるのかを把握することは可能です。表面的な「ゲームをしたい」「LINEしたい」の裏側に隠された本音を引き出してあげてください。本当に必要なものとそうでないものの区別が難しくなるので、高価なモノを簡単に買い与えないでください。使用ルールは買う前に設定してください。親の交渉権を強く発揮できるのは、子どもにそれを持たせるまでだからです。
悩み抜いた結果、プラスジムでは中学生はスマホ持込不可。高校生は持込可としています。
その判断は大正解でした。

中学生にスマホはまだ早い

「やってみよう」とも思ってくれない
そもそも挑戦しようともしない。無気力。なにを言っても響かない。やる気がない。「やってみよう」とも思ってくれない
高いところを目指そうという気力が見られないことに不満を持たれる方は多いものです。
結果が失敗に終わってもいい。一生懸命に取り組んだ経験であれば、きっと何かしらその後の人生の糧になるはず。良心的な親はみんなこのように願い、そんな子どもを応援したいと思っているものですが、肝心の本人が積極的に挑戦しようとしないのです。
きっかけを与えても、高い授業料を払っても、明らかに不完全燃焼。手間にお金、親は色々なものを犠牲にし、子どもの将来を思って機会を提供しているのに、しまいには文句まで言われる始末。
小中学校時代の私も、まさにそんな少年でした。
本人の活力不足がこの問題の根底にはあります。
ひと言で言えば、栄養失調状態なのです。
ただし、栄養と言っても身体的なものではありません。心の栄養です。
その栄養を私はシンプルに「自信」と表現しています。

自信があれば何でもできる

勉強でなくてもいい。
自分のことを誇りに思えるような経験が子どもの毎日に活力を与えます。

大人の価値観、子どもの価値観
活力があっても、方向づけを間違えると長い人生は上手くいきません。
失敗から学ぶこともあるとは言え、出来ることなら、正しい方向に向かせてあげたい。
そう思うのが親心だと思います。
なにをがんばるべきか、正解のわかりにくい世の中ではありますが、「学ぶ力」そのものを鍛えることはどんな世の中になっても必ず役に立つと私は考えています。プラスジムは、「現在完了の用法を教える」とか「二次方程式の解き方を教える」といった問題の解法そのものを教えることは重視していません。一貫して大切にしていることは、学びに対する考え方、学びの技術、勉強体力(長時間の勉強に耐えうる力)をどのように生徒に落とし込んでいくかということです。

勉強の心技体

学ぶ力を鍛えるための手段として、受験や定期試験があります。そうした機会を有効活用するためには、「勉強ができるようになることは素敵なことだ」という「価値観」を子どもたちに持ってもらう必要があります。
子どもたちには時間という「資産」がある一方で、社会経験がないという「弱み」があります。
長い人生を生きている大人は色々なことを知っています。
勉強に真剣に取り組むことは、確実性の高い時間の投資戦略であること。
学歴のような社会的信用がないと、人生の色々な場面で無用の苦労をすることになること。
勉強をがんばっていた友人は、なんだかんだ言って恵まれた人生を歩んでいる場合が多いこと。
経済的に苦労すると、身も心も削り取られるような毎日が待っていること。
そうしたことを実体験から、肌感覚で理解しています。
かけっこが速くても社会では評価されないことや、野球やサッカーがどんなに上手くても、それを仕事にすることはかなり難しいこと。タバコを吸っても誰もカッコイイとは思ってくれないことや、喧嘩に強くても何の意味もないこと。ギターを弾けて歌が上手くてもあまり披露する機会はないこと。
過去に価値を感じていたことが、大人になるとあまり価値を感じなくなったりするわけです。
だからこそ、その子の現在の「価値観」を尊重しながらも、少しずつ次のステージの「価値観」を伝えていかなければなりません
方程式の解き方を教えるよりも、「価値観」を教える方がはるかに難しいです。
先に生きる、と書いて「先生」です。
先の世界を見ている人間の役割は、そういうことにあると考えています。

以上、考察編1でした。
次回、「高校編」へと続きます。


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