Vol.203 塾長の履歴書 -高校編-
2021年04月27日更新
今年度から教育的観点を交えながらの自分史を公開しています。
今回は「高校編」です。
最初から読んでいただく場合は、以下の記事から読み進めてください。
センター試験英語198点
大学受験センター試験英語は198点(200点満点)でした。
しかし、高校3年生時の私は、”He is not play baseball.”の文法的な間違いすら理解していなかったのです。中学1年生で習うbe動詞/一般動詞の区別もついていない状態でした。実質的には約4か月間で成績が急激に伸びましたが、その間、何をしたのかよりも、それまでに何があったのかの方が重要なので、そこにいたる経緯をこれまでと同じように振り返っていきます。
部活と茶髪とピアス -高校1年生-
高校入学を機に母親の教育方針がこれまでと180度変わりました。「勉強しなさい」と言われることはなくなり、勉強は完全に自己責任になりました。こちらが希望すれば必要な支援はしてもらえましたが、親が率先してそれをすることはなくなりました。「高校から先は本人の人生」と考えていたのか、「言っても無駄」と悟ったのか、おそらくその両方だと思いますが、とにかく私は自分の意志で勉強をするかしないかを決められるようになったのです。
これを良いことに勉強はまったくしなくなりました。興味関心を持ったのは意外にもバドミントン。その高校には優秀な指導者がおり、そこそこ強かったのです。滋賀県には比叡山高校という全国屈指のバドミントン強豪校があったため、県大会の壁を突破することはまず無理でしたが、他県であれば全国も充分に狙えるレベルであったはずです。そんな学校で、なぜ突然部活に目覚めたかには理由があります。当時の高校受験は「学区制」となっており、その高校に進学できる中学校は限られていました。私の出身中学が唯一、バドミントン部がある学校だったため、新入生の経験者が私を含めて2名しかいなかったのです。一応は経験者ですから、入部時点で他の新入部員より多少は技術があります。「他の人よりも上手くできる」経験をほとんどしたことがなかった私は、このことで得意な気持ちになり、真剣に部活に取り組むようになったのです。弱小校であった中学と違い、この学校で強くなれば先輩たちのように試合で活躍できるという希望がありました。
7月のある日のことでした。4月からバドミントンを始めた同級生が私と試合をしたいと言い、彼の実力を下に見ていた私は、胸を貸すようなつもりでその試合を引き受けました。
試合後、自分の中で、なにかがふっ切れた感覚がありました。部活に真剣に取り組むことが急にバカバカしくなり、部活には顔を出さないようになりました。
さて、なにをしようか。とりあえず、髪の色でも変えてみようと思い、ブリーチをして少しずつ髪の色を抜きました。安全ピンで左耳にピアスの穴を開け、服装も乱れがちに。もともと高校生活に求めていたのは、勉強や部活動を一生懸命にやることではなく目立つこと。少しずつ問題行動が増え、校内では別の意味で目立つ存在となっていきました。
朝からパチンコ屋に並ぶ高校生 -高校2年生-
2年生の2学期末、通知表で10段階評価2.9(5段階1.5)という、前代未聞の数字を叩き出しました。学習塾で働くようになり、1000人以上の通知表を見てきた現在もまだ塗りかえられていない最低記録です。学年順位は下から4番目でしたが、私より成績が下の生徒は留年などで、その後退学していきましたので、高校の中でも最下位にいたことになります。授業は欠席するか、寝ているかでしたし、自学自習はしていませんでしたから、当然と言えば当然の結果だったわけですが・・。
かばんに私服を入れて家を出る日が多くなりました。向かう先は高校ではなくパチンコ屋。その頃のパチンコ屋には「モーニング」というサービスがあり、朝一で大当たりがすぐに引ける仕組みになっていたのです。1000円さえ持っていけば、とりあえず大当たりを引け、数千円分の出玉が手元にある状態でゲームを始められるという仕組みで、その「モーニング」狙いでパチンコ屋には毎朝行列が出来ていました。平日の朝から田舎のパチンコ屋に並んでいるような連中ですから、ろくな人間はいません。また、当時のパチンコ屋も無茶苦茶でした。行列というよりも、人だかりという表現が的確ですが、開店直前は毎朝、扉の手前で客が押し合いへし合いの大騒ぎをしているのです。「押すな!押すな!」と怒号が飛び交う中、扉が開くと同時に猛ダッシュで目当ての台へと走り、タバコを置くなどして必死に自分の台を確保。転倒して怪我をする客や台の奪い合いで喧嘩になる客など、トラブルが日常茶飯事のまさに鉄火場でした。
家にあまり帰らなくなったのもこの頃です。深夜まで仲間と遊びまわっていることが多くなり、そのまま友人宅で寝て帰ることが普通になりました。ろくなことはしていませんが、活力に満ちあふれた刺激的な毎日でした。
そんなある日、仲間の一人がバイクに乗って走っていたところを地元の暴走族グループに襲撃され、そのまま拉致監禁されるという事件が起こりました。数日後、意識朦朧となって歩いているところを警察に保護されたのですが、それ以降、そうした世界への興味が自分の中で急速に消えてきました。少しずつ、付き合っていた仲間と距離をおくようになり、高校2年生を終える頃には学校生活に自然と軸足が戻るように。とりあえず高校だけは真面目に通うようになったのです。留年確実かと思われましたが、春休みに補講に参加すればそれを免除してくれるという学校の先生の温情により、寸前のところでそれは免れました。
ピアスは学校では外し、髪色も戻しました。
大学受験という「決断」 -高校3年生-
高校卒業後の予定は何もありません。卒業まで1年を切り、その先の進路のことを真剣に考え始めなければならない時期でしたが、高校卒業できるかどうかも怪しい自分にその先のことなど考える余裕はなかったです。就職か専門学校が現実的な路線でしたが、やりたいことも見えていないのに、自分の将来の仕事を決めてしまうことに抵抗があり、その決断はできずにいました。親や先生にはひとまず大学受験をすることにしておきました。
その状態を抜け出すきっかけをくれた友人がいます。たまたま、高校の隣にある彼の家に遊びに行った日のことです。部屋に入って驚きました。きちんと片付いていることもそうですが、机の上や書棚に赤本や大学受験の問題集がたくさん並んでいたのです。大学受験に独学で取り組んでいることを教えてくれました。進学校に通えたにも関わらず、自分の力で大学受験を攻略できる自信があったため、近くにある私と同じ高校にいたのです。
色々な意味でショックでした。そもそも、勉強は大人にやらされるものだと思っていた私にとって、主体的な意志で勉強しているその姿がまず衝撃でした。それも大人の力に頼らずに、です。また、「大学入試に高校の成績は関係ない」という彼の教えにも驚きました。高校の成績が悪かったため、有名大学には入れないだろうと勝手に思っていたのです。彼は私にも大学受験を勧めてくれました。成績が非常に悪いことは知っていましたが、「原くんは、本当は頭いいと思う。きちんとやれば良い大学に合格できると思うで。やり方は全部俺が教えるから。」と言ってくれました。そういう風に自分に言ってくれる人は自分のまわりにはいませんでした。それ以上無理に受験を勧めることもなく、「やりたくなったらいつでも相談して」と言ってくれました。
せっかくの助言でしたが、私の気持ちの準備が整うまでにそこから数か月かかりました。本気で受験勉強に取り組むことを決めたのは12月になってからです。現役合格は絶望的なため、浪人前提で大学受験に挑戦することにしました。
どうせやるなら誰もが知っている「すごい大学」に合格したいと思いました。難しそうだから止めておこうとか、そういうためらいは一切なし。「挑戦」によって得るものはあっても、失うものなど何もないのです。あんなに勉強が嫌いで苦手であったにも関わらず、このときの私は「自分ならできる」という根拠のない自信に満ちあふれていました。自分でそのことを「決断」したからです。中学校までの自分とは活力が段違いでした。色々な無茶を経験していたため、机に向かって勉強することなど楽勝に思えました。好き放題に遊びまわっていた中で、抑圧されていたエネルギーが自然と開放されたのだと今は思っています。鍵となるのは、その方向づけだったのですが、友人のおかげで大学受験にそれが向かうことになりました。
重視したのは「戦略」です。考えた結果というよりも、大学受験の目的は「すごい大学に合格して、周囲の人間を驚かせる」でしたから、手段は特に気になりませんでした。壮大なサプライズ企画に挑むような気持ちしかなかったです。
狙いは慶応大学に定めました。なぜなら、英語と世界史の勉強だけで済むからです。
国語が小論文であったことも、古典嫌いの自分にとっては好都合でした。結局、古典漢文はそのまま一切勉強することなく、翌年の大学受験を迎えることになります(後に後悔しました)。
最初に購入したのは慶応大学の赤本(過去問題集)です。本と一緒にかばんとして使えそうなクリアケースを買いました。所持しているものの中身が全部見えるケースです。誰からも見えるところに慶応大学の赤本を入れ、外を出歩くようになりました。そもそも解けないので、赤本の問題ページはまったく使いません(笑)「合格体験記」のところだけを何度も何度も読み、その度に自分も合格したような気持ちになっていました。進学校でもない学校で、慶応大学の赤本は目立ちます。周囲の反応は様々でした。別の意味で「とんでもないことをやらかす人物」という認知があったので、本気で驚く友人もいれば、あきれている友人もいました。ただ、共通しているのは誰も慶応大学のことをよく知らないということです。
大学受験の世界を教えてくれた友人だけは、その難しさを正確に理解していたはずですが、「原くんならやれる!」と後押ししてくれました。
その通り。物事はやってみなければわからないのです。
そのようにして学年ビリから慶応大学への挑戦が始まりました。どこかの映画みたいな話です。
次回、浪人編へ続きます。